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東南アジアにおける少数民族の村を訪れるトレッキング・ツアーが観光客に人気である。少数民族観光は1970年代に若い観光客の間で人気を呼ぶようになり、今なお根強い人気を誇っている。それらの人気の理由 は近年の社会の変化に密接に関係している。モダニズムの到来によって私たちの社会は大きく西洋化した。グ ローバリゼーションの進展により文化多様性の認識が広がる一方で、言語の急速な消滅、及び製品、法規範、 社会構造やライフスタイルの画一化が進んだ。観光社会学の文脈においてはその画一化の影響を受けなかった 地域文化が羨望されるようになり、観光の需要が高められたと言われている。既成のパックツアーでは満足で きなくたった人びとは、いわゆる観光地としてならされた「表舞台」から離れ、「本物の」旅らしい旅を指向するようになった。

 

しかし、観光客と民族の接触する現場には様々な批判がある。その一つが観光客が少数民族や貧困を見せ物 として楽しむ「人間動物園」批判である。なぜそのような批判があるかとすれば1観光対象となるかどうかの 自由の欠如2観光客の問題あるまなざし、の二つがある。タイの山岳地帯の少数民族の多くは自国や他国から の難民である。しかしタイ政府は彼らを観光に利用するために難民キャンプの外に居住させておきながら、難 民キャンプ外に居住しているということで彼らは難民ではないという主張をしている。また、自国民でないた め関与しないとの態度を表向きには取っていたがその民族特有の文化である首輪をつけていると補助金が与 えるという矛盾がある。少数民族はその観光文化を維持するために軟禁されている状態である。また、観光客 からの奇異のまなざしはその民族の文化や誇りを傷つける。それらは観光の存続の面からも問題があり、自文 化に恥ずかしさを覚えた民族がその文化を捨ててしまうと観光対象として成り立たなくなってしまう。そうす ると観光による収入がなくなりまた難民に戻るほかなくなるのだ。もちろん、少数民族も観光を利用している 一面はある。観光地化する事で伝統文化を維持できるほか、貴重な外貨収入を得られ、継続して家計を支える 事ができる。その収入を使って子供を学校に通わせる事もできるだろう。たとえ観光地化されていても、少数 民族観光に関わるそれぞれの立場の「人」と「人」との関係が対等であれば、人権問題やそれに関連する倫理 問題は生じ無いかもしれない。しかし、少数民族観光においては対等な関係でないのが実状である。

 

しばしば少数民族が観光に利用された時「未開人」のような扱いを受ける。確かに、少数民族の人々は経済的、社会的にも彼らの属する国の多数派の民族に比べて劣位に立たされている場合が多い。観光客と彼らとの間には大きな貧富の差がある。近代的な文化を持つ者と前近代的な文化を持つ者といった違いもあるだろう。しかし、そこから少数民族の文化が未開の文化であるかのように見下したまなざしが生じるのは何故だろうか?貧困は文化的劣位であるとのまなざしに由来する事も言及されている。少数民族の人権が大概に無視 されてきた事を考える上で、この「まなざし」を解き明かす事が必要ではないだろうか?

 

このような問いを立てると、「未開人」に貶められることによって生ずる精神的苦痛が観光収入によって得られる利益が十分に得られるのであれば、それも受け入れるべきだという反論がある。しかし、本当にそれは 正しいだろうか?それはつまり、観光客はお金さえあれば少数民族を見下す権利が与えられることになる。少数民族がこのような低い地位に置かれ、社会的弱者に貶められてしまうとそれは後々まで付いて回り、その被 害は目先の利益だけで補償されるようなものではない。それが、少数民族が観光によって被る被害を放置する事の出来ない理由である。

 

今回はこの「問題あるまなざし」について考察し議論を行う。観光者から奇異、貧困と写ってしまう少数民族文化は一体なぜそのようにまなざされてしまっているのか?まな、なぜ観光者はそのようにまなざすのか? ゲストとホスト、それら両面から考察を加える事で文化の対立構造を明確にし、よりよい文化接触の在り方に ついて考えたい。 

 

第一討論 

第一討論

観光地における文化接触−まなざしによる侵害− 

過去ディスカッション

ここでは第36回国際学生シンポジウムで使用したディスカッションテーマを公開しています。

 

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