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 重要なことだと頭で分かっていても、わたしたちはついつい電気を無駄遣いしてしまうことがある。環境保護に向けて最も適した行動をとっていない理由を客観的に判断した場合、どうすればいいかを知らないという過失や、もしくは「環境保護」をさぼっているという怠慢など、環境保護に関する手段・重要性の知識をもたないということが挙がる。環境を守るために最善であるとされる行動をとることは「合理的」である一方、そのような合理的な行動をとらない合理的な理由は、そのことを知らないということしかないからだ。

 

 しかし、本当にそうだろうか。私たちが環境保護を最優先しない行動をとった理由が、その方が環境によいことを知らないといったような環境保護についての知識の不足であることはあまりなく、むしろ、「もったいない」と感じつつも、結果として取った行動を環境保護よりも優先しているだけに過ぎないことの方が多いのではないだろうか。

 

 このような状態を説明する際、専門家と一般の人との間の「妥協性境界」の差異がしばしば取り沙汰される。妥協性境界とは、平たく言えば、「ここまでやれば大丈夫」と感じる一線である。つまり、環境上の諸問題に関わる専門家がそれぞれの領域ごとに、科学的な普遍性を有する法則や分析を基に環境への影響を最小限にしようとするための基準を提唱する一方で、一般の人々は、自らの環境のための何らかの対応をすることになった場合、自らの生活や状況関心に応じて科学者とは異なる基準を持ち出してくる。例えば、専門家がハイブリッドカーのメリットを述べたとしても、一般の人はその値段が高いために普通の車を購入すると言った行動だ。環境保護が「綺麗事」と揶揄されることがあるのは、日常生活を営む際の水準ではなく、専門家が提唱する合理性を重んじた水準での行動が求められていることが多いからだ。

 

 すなわち、環境保護への取り組みを訴える際、環境問題の逼迫性を訴えることは、その対策が科学者たちの基準のみで行われる場合、おそらく無意味である。その知識に基づいて環境保護を訴えても、合理性を意識した理念的な知識の問題を出ることは無く、日常生活に基づいた問題ではないからだ。実際に人を動かすために必要なのは、日常生活の領域における妥協的境界を引きあげるような取組である。

 

 今回のディスカッションでは、私たちがどのようなことを基準に生活を送っているのかを分析することで、環境問題への取り組みの優先度をどのようにしてあげればよいのかを考える。

 

 

第三討論 

環境保護に向き合うために

第三討論

過去ディスカッション

ここでは第36回国際学生シンポジウムで使用したディスカッションテーマを公開しています。

 

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